NPO法人 AWC 水道事業活性化懇話会

菱田 洋祐

ネパール紀行  菱田洋祐

寒くない?

久しぶりに外国旅行に出かけました。ネパール7泊8日の旅です。
本当は昨年の11月に行く予定でしたがアメリカで起こった同時多発テロ事件でまだ騒然とした
状態でしたので、延期されていましたが、行く先の気候も考え2月となりました。

この寒い時期にヒマラヤの麓の国へ行くの寒くないの?と10中10人から問い返されました。
私も最初はそう思いましたが、これは年中雪をかぶったヒマラヤからの連想だけで、緯度的には
日本の奄美大島か沖縄と同じぐらいの亜熱帯の高度1000m前後の高地ですので寒くありません。

実際に2月中旬で日中の気温は20度を超えていました。日本で言えば初夏といったところでした。
なぜネパールを選んだのかと言いますと、AWC の会長がたびたび仕事でネパールへ出張されて
いて現地の状況が聞けたこと、大阪市のOB町田さんが現地の駐在員として長期に滞在されてい
たから情報がとれること、日本人のルーツがある地域であること、ヒマラヤを間近に見たいことが
参加した動機です。

余談になりますが、Eメールのやりとりは非常に有効なことを実感しました。実際私がネパールの
ポカラで出した絵はがきは2週間経った今日現在まだ届いていませんが、Eメールであれば瞬時に
ペーパーレスでほぼただで詳しく情報を交換できることができ便利さを実感しました。

予備知識を得るために本屋にガイドブックを探しに行きましたが見つかったのはたったの1冊でした。
「地球の歩き方28 ネパール」でした。結構役に立ちました。
ただし、ネパールの最大の産業である観光が、テロ事件の影響で観光客が激減し、ガイドブックに出
ているホテルの値段よりかなり安くなっているように思いました。

出 発

日本からネパールに行くルートはいくつかありますが直行便があるのは関空からの週2便のロイヤル
ネパール航空だけです。これも上海に寄港し9時間かかります。
使用されている機体は機内音楽や映写設備もないものでした。搭乗率はかなり良くほぼ満席でしたが
帰りの上海から関空はがらがらでした。まもなく関空は成田へ変更されるようです。日本との時差は3
時間15分ありますが到着時に修正する必要はありません。というのは時計の3時のところを12時として
読めばほぼ現地の時刻となるということを教えてもらいました。

まずはどんな国?

ネパールは北はヒマラヤ山脈で中国と、南はインドに接する東西1000km、南北150kmの15万平方キロ
mの面積に2300万人の住む山岳地帯の国です。平均寿命は55歳程度だそうです。国内には鉄道が一
切ありません。山が多くトンネルの連続となって建設費がたい変高くつくからではないかと思います。
国内唯一のロープウエーが最近完成しこれに乗りました。怖いぐらいの急斜面を上り、山上のヒンズー教
の寺に行きました。

ネパールでは平面移動より垂直移動の方が大切なのかもしれません。国内で消費される石油はすべて
インドから陸送されています。一方でヒマラヤの水はネパールからインドに流れ出しているのでネパールが
水を制御するとインドが石油の運搬を制限する報復措置を取るのだそうです。

日本人のルーツでないかという気持ちで見るとネパールと日本人には共通点がたくさんあります。
ネパールの人々の顔つきや体格は日本人とほとんど同じで少し色が黒いかなという程度で本当によく似て
いますので非常に近親感を覚えます。またネパール語の語順は日本語と同じで目的語が先にきて述語が
後になります。両手をあわせる挨拶があります。日本ではお寺と神社に行ったときだけですがネパールでは
< おはよう> も< さよなら> も人と人の挨拶に絶えず使われています。

宗教はほとんどがヒンズー教徒だそうですが仏教のお寺にもお参りするそうで日本と同じように宗教に対し
てはおおらかなようです。

国民の80% が農民で自給自足しているそうで山のてっぺんまで段々畑として使われています。農業用の機
械はなく人力と牛で作業をしていました。今の時期は乾期の終わる頃でほとんど作物は見ませんでしたがこれ
から豆を植えるようで一部で植え付けも済んでいました。
平地の畑では所々で菜の花が満開となっていました。

食事は宗教上牛肉は食べませんが、よくしたもので水牛の肉は食べても良いのだそうです。肉としては鶏が
よく使われていました。食事はカレーでおおきな金のお皿にご飯と3種類のカレーの具がのって出てきます。
外国人にはフォークとスプーンが出てきますが、カトマンズとチトワンの往復を車で運んでくれたネパール人の
スモンさんはカレーの具を右手の指でつかんでご飯の上にかけてぐちゃぐちゃと混ぜて口に運んでいました。

街は日本の50年前

街の雰囲気はひとことで言うと昭和20年代の日本を想像すればぴったりときます。
まちなかに手押しポンプ式の共同井戸が活躍していました。バスは超満員で時にはドアを開けたまま走ってい
ます。懐かしい輪タクも走っています。

タクシーの大半はミゼットすなわち軽三輪車と軽四が使われています。市内の大きな交差点はロータリ-タイプ
になっていて警察官が誘導しています。従ってどこにも信号はありません。横断歩道のマーキングもほとんどあ
りませんので幹線道路でも至る所で人が渡ってきます。

しかもあわてることなく。どうも先に進入した者に優先権があるというルールが確立しているのではないでしょ
うか。道路にはセンターラインは引かれていませんし、至る所に舗装のめくれたくぼみができています。追い越し
は対向車線側を警笛を鳴らしながら前に出ます。少し郊外に出ると牛も群をなして道路を歩いています。

故障したトラックを運転手が直しているのをよく見かけました。車の周りに直径10センチ位の石を1メートルおきに
置いて標識にしていました。起伏の激しい山道を古い車で走るからでしょうか、トラックは登り坂では極端にスピ
ードが落ちていました。

私たちのチトワンへの往復に使われた乗用車は18年前のトヨタ車でしたが全く問題なく走ってくれました。
日本車の評判は上々のようです。今は乾期で気候はよいのですが雨が降らず町中が埃っぽい感じで、おまけに
排気ガスで空気に臭いが付いているようでした。

物 価

ネパールでの一流ホテルはツイン1室60ドルでしたがビジネスホテルは10ドルで泊まれます。
ただし風呂はなくシャワーのみで湯もほとんど出ませんでした。ネパールのトイレは良くないと聞いていましたが
私たちが使ったホテルやレストランでは特に不快に感じることはありませんでした。

日本料理の店も何軒かありました。レストランといってもコース料理が出るような店でなく、どんぶりやうどんが
出る居酒屋のようなものです。料金はカツ丼が500 円ぐらいで日本と同じようなものですが、現地の物価が1/10
であることを考えれば相当高いものとなっています。

治 安

空港では国内移動の時も荷物をあけろと言われましたが非常に簡単でした。空港入り口や郊外に出たところで
は車の検問がありました。これはトラックに重点があるようで、私たちの車は運転手に対して、どこから来たか、
客は誰かという質問で、日本の観光客だと言えばチラッと顔を見回してすぐにいけというサインを出していました。
滞在中にネパールの西部で大勢の警察官が殺されると言う事件が起きましたが、その前後で警備体制に変わ
りはなかったように思います。

マウンテンフライト

ネパールの一番の呼び物はなんと行ってもヒマラヤだと思います。体力があればトレッキングでヒマヤラの懐に
入ることもできるのですが私たちは約1時間の遊覧飛行でヒマラヤに5kmまで近づきました。雪を頂く切り立った
尾根が何重にも重なった山脈は造山活動のすごさ、荒々しさに圧倒される思いがしました。またカトマンズから
ポカラへの移動の飛行機30分は、ヒマラヤ山脈に平行して飛ぶので遊覧飛行として楽しめました。

珍しい習慣

カトマンズや隣町のパタンには13Cに栄えた王宮が残っています。建物は煉瓦造りですが窓枠や出入り口には
精巧な木彫りの彫刻が施してあります。ヒンズー教やチベット仏教の仏像も多く見ることができます。この中には
男女合体尊もあります。
パタンの旧王宮にはこれらのすばらしい仏像を展示していました。また日本で言うお稚児さんと言うところでしょう
か小さい少女がクマリと呼ばれる生き神様として王宮の一角に住んでいます。
この生き神様は時間を決めて窓から一瞬姿を見せてくれます。
わたし達が見学している時にちょうどその時間に当たったようで、化粧し着飾ったかわいい少女を見ることがで
きました。カトマンズの市街地のはづれにあるネパール最大のヒンズー教の寺院では前を流れるガンジス川の支
流の河原で行われている火葬場を見学しました。
これは川の中に突き出した石舞台の上に太い丸太を井桁に積み上げ、白い布でまいた遺体を置きその上に薪を
さらに積んで火をつけて焼いていました。灰は川に流してしまうそうです。足の部分が少し見えました。
このように色々と日本と異なる習慣というか文化の違いをかいま見たように思います。

ゾウの背中でジャングル散歩

団体行動の最後のイベントとしてネパールの王宮料理を楽しみ、私たち夫婦以外の8人が日本に帰る深夜便を
見送って、町田さんがセットしてくれた私たち夫婦だけのチトワン国立公園への2泊3日の旅を楽しみました。
もう日本語の解るガイドはおりません。
カタコト英語が頼りの旅でしたが何とかトラブルなく予定をこなすことができました。
チトワンはカトマンズの南西約100km のところにあります。カトマンズからチトワンまでは、英語のできるドライバ
ー付きの車で、途中観光したり昼飯を食べたりの1日がかりのドライブでした。
この国立公園は亜熱帯の密林で大阪市の面積の10倍くらいの広さがあり、サイ、トラ、ワニの生息地として有名
だそうです。

ゾウは野生のものはすでにおらず、インドからつれてきたものを繁殖させ観光用や荷役に使っていました。
ゾウの繁殖センターでは大人のゾウは鎖で繋がれていますが、生後1年にならない子象は放し飼いになっていま
した。子象と言っても事務机ぐらいのボリュウムはあります。
背中をなでても怒りませんし母親ゾウの足にからみついてじゃれついている様子は本当にかわいいものでした。

さて、観光用のゾウは高さが2mは越える大型で、首のところにゾウ使いが座り、その後ろの背中の部分に1m
角の手すりの付いた板がゾウの腹に巻き付けてあります。

そこに客が4人足を投げ出して座ります。ゾウ使いは声をかけながら耳の後ろをはだしの足の先でつついたり
、はたきの棒のようなもので頭をたたき制御していました。
戒具として長さ40cm直径15mm位の先を尖らせた鉄の棒も持っていたがゾウ使いの命令には忠実に従ったので
この棒は一度も使われませんでした。
ゾウはおとなしかったのですが揺れは非常に大きく必死で手すりに捕まっていなければなりませんので、約2時間
の散歩で大変疲れました。

宿泊したキャンプは10畳ぐらいの広さで風呂はシャ ワーのみで湯はほんの少ししか出ませんしトイレのタンクの
レバーも故障しているといった状態で、田舎に来たなあと言う気持ちになりました。その代わり2泊3日食事、ツア
ー付きで一人7000円ほどしかかかりませんでした。

帰ってきて思うこと

戦後に幼年期を過ごした私にとってネパールは50年前にタイムスリップしたような気分になりました。
財源確保、エネルギーの確保、インフラの整備、内紛の解決、雇用の拡大など多くの課題を抱えていると思います。
国民性は非常に勤勉、穏和で、識字率も高く人的資源は十分あるようですが、50年後に今の日本のような状態
になるとは考えられない気がします。

世界は今や情報は瞬時にしかも大量に駆けめぐる時代となっています。
当然いろいろな格差も身近に感じることができるわけで、今まで以上に地球人として共生できることを考えないと
いけないように思います。その最初はお互いに相手を良く理解する事から始まります。そのためにはもっともっと
人的な交流を深めることが大切だと思います。


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